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2013年02月22日

「さふらん湯」のシンボルマーク

さふらん湯のシンボルマークは「神功皇后」とその家来「武内宿禰」(左の翁)、神功皇后には卑弥呼説もありますが第14代仲哀天皇の后、第15代応神天皇の母と言うのが一般的です。

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2013年02月19日

昭和47年頃のパッケージ

20130219_4.JPGGMP(医薬品及び医薬部外品の製造管理、及び品質管理基準に関する省令)の施行を機に「塩釜さふらん湯」の製造は遊佐一貫堂から(株)鈴彦の全額投資で設立された「塩釜蛮紅華湯」に委譲されました、これはその当時のパッケージです。

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2013年01月29日

昭和初期頃のパッケージ

20130219_3.JPG左の古い「塩釜蛮紅華湯」のパッケージは昭和初期、遊佐一貫堂が製造していた頃のものと思われます。
この頃「塩釜さふらん湯」は、米や塩に酒、そして薬種(生薬)を手広く商う塩釜市の「遊佐一貫堂」において製造販売されました。

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2011年09月21日

くすし

我が国には、中国大陸を起源として日本化された伝統医学「後世方」、「古方」、「一貫堂」などの流派があり一部は現代も存続していることが知られています。
古代中国の医学書「皇帝内経」や「傷寒論」を基に日本化された中国大陸が起原の伝統医学は、「くすし」と呼ばれる薬物治療に長けた人たちによって鍼灸や指圧なども加味されながら治療が施される一方、くすしは薬用となる植物の知識や加工法なども身につけていたと思われます。

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2011年01月05日

遊佐快慎信春と一貫堂

遊佐快愼信春が興した「遊佐一貫堂」は、塩釜さふらん湯のほかにも薬種、砂糖や酒など手広く商う傍ら、塩釜港の浚渫工事など公共事業にも尽力したと伝えられています。
一方、産科医としての遊佐快慎信春は多くの産婆を育成、この産婆達によってさふらん湯が広く宣伝され、産後肥立ちの快復に効果的に使われたものと思われます。

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2010年12月21日

尿前の関


元禄2年(1687年)、「夏草や兵どもが夢のあと」と詠んだ松尾芭蕉と曽良は平泉(岩手県)を出発して、宮城県岩出山から鳴子を経て出羽(山形)に向かいました。

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2010年07月25日

「産婆さん」と「さふらん湯」

さふらん湯」の発売元「遊佐一貫堂」は塩釜を本拠として薬種や砂糖、酒など手広く商う一方塩釜港の浚渫事業にも尽力したことが知られています。
「さふらん湯」の処方を開発した産科医の遊佐快慎信春は産婆の育成にも積極的に取り組み多くの産婆を育てましたが、快愼信春に教育を受けた産婆達によって産後の肥立ちなどに「さふらん湯」が広く使われたことが容易に想像にできるのです。
「さふらん湯」は「血の道の薬」と称されました。

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2010年05月24日

塩釜神社と「さふらん湯」

塩釜神社の第18回式年遷宮に奉賛のため塩釜神社に行きました。
参道から塩釜港が一望でき、木々の緑と相まって青葉のシーズンを実感できます。
塩釜さふらん湯 を開発した遊佐快慎信春が産科「遊佐一貫堂」を開業したのが裏参道(通称 女坂)を下りた辺りと伝えられています。

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2010年03月15日

創始者「遊佐快慎信春」 (1)

塩釜蛮紅華湯(さふらん湯)は幕末天保年間、宮城県塩釜市で産科を開業していた遊佐快愼信春によって「婦人の妙薬、血の道の薬」として処方が開発されました、処方が開発されてから今日まで180年間に渡り飲み継がれてきました。


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2010年03月10日

二代目「遊佐快慎信高」 (2)


陸奥塩釜に婦人の妙薬ありと名声を博した「さふらん湯」の処方を開発した遊佐快慎信春は1837年(天保8年)55才で没しました。

快愼信春の嫡男快愼信高は一時東京浅草で産科を開業していましたが、明治14年塩釜に帰り産科兼薬舗遊佐一貫堂を引き継ぐこととなりました。

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2010年02月27日

テスト書き込み01

デザイン組み込みを行なうにあたって必要なテスト書き込みです。
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